「瞑想者の孤独」 ~ クンダリニーやチャクラ、真気が目覚めたところで寂しい ~
増谷文雄は著書の中で「正覚者の孤独」ということを述べています。
正覚者とは釈尊のことです。
釈尊は悟った後、
「尊敬するところもなく、恭敬するものもない生き方は苦しい。わたしはいかなる沙門もしくは婆羅門を尊び敬い、親近して住すればよいのであろうか」
と、考えたといわれています。
師と仰ぎ尊ぶ人がいないのは苦しい(寂しい)、ということです。
悟って全てを成したはずの覚者がこう述べるのは意外であり理解できなかった、と増谷はいっています。
確かに成道し、〈苦〉を〈滅した〉はずの釈尊が述べる言葉にしては寂しいとはいまさらな感があります。
しかしながら、私はなんとなくわかる気もします。
もちろん、私は正覚も成道もしていないただの凡夫であります。とはいえ釈尊とは瞑想者としてレベルは違うものの似た思いを感じているのです。
私が、ヨーガ的にいえば〈クンダリニー〉が、気功的にいえば〈真気〉が目覚め、〈チャクラ〉が覚醒して、〈サマディ〉(三昧)に入れるようになりたての頃のことです。私はたいへん喜びました。また、有頂天になり自惚れました。
しかし、だんだんと冷静になってくるとあることに気づきました。それは、これらのことを周囲の誰にも話せないという現実です。
私の周囲の人たちは親兄弟や友人の誰も宗教的な人はおらず、〈クンダリニー〉だ〈真気〉だ〈チャクラ〉だ、といっても「トンデモ」(とんでもない、まともではないこと)に見られるかもしれない。もしかしたら発狂したと思われるかもしれない。
これらのことは一般的にはあたりまえと通じる物事ではなく、時にはうさんくさく思われる事です。理解されないことの方が多いでしょう。
そうすると黙っている方が無難なのです。
自分の「現実」は周囲の誰とも共有できなく、自分の「世界」は誰にも理解されないのです。
それはとても孤独で寂しいことだと思います。
〈クンダリ二ー覚醒〉の危険性はよくいわれることではあります。
〈覚醒〉し「サマディ」(三昧)や「神秘体験」などの意識の変容を経験したところで、その現実は誰とも共有できないものなのです。共有され難いものなのです。
現代日本の世間では「トンデモ」なのですから。偏見にさらされることもあるマイノリティになるということです。
それは孤独になる、ということです。寂しいことです。
こういう意味でも〈クンダリニー〉や〈真気〉の覚醒は危険を孕んでいるといえます。
悟ってもいない私でさえ孤独感と寂しさを噛みしめているのですから、〈唯我独尊〉の立場の釈尊はまた次元の違う孤独を抱えていたのかもしれません。
人間、寂しい時は寂しい。そういうあたりまえのことはどこまでもあたりまえなのかもしれませんね。
(注:敬称は略させていただきました。)
参考文献:
『釈尊のさとり』 増谷文雄 著
- 作者: 増谷文雄
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1979/02/08
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