「不昧因果」

今日の記事は「不昧因果」についてです。


「不昧因果」は「不落因果」と対になって使われることが多い禅の言葉です。


「大悟した人でも因果の制約から自由になれないのですか?」(因果に落ちてしまうのですか?)

と問われて、ある人は、

「大悟した人は因果の制約から自由になる!」(因果には落ちない!不落因果!)

と言いました。そのためその人は野狐の身におとされてしまいました。


しかし、その人(野狐になった人)は百丈和尚の、

「不昧因果」(因果を昧まさず)

という言葉を聞き、悟ります。


これが百丈野狐のおおまかな主旨です。


まず、因果に落ちるか、落ちないか、という疑問がだされます。なぜそれが疑問となり問題とされたのでしょう?


おそらく人間は因果の制約から自由になりたいと思っているからでしょう。因果というのは重いのです。だから、因果に落ちないことがあったらいいなと望み、因果に落ちない人になれる、人は因果から自由になれる、と思いたいのでしょう。


それで「不落因果!」という答えとして発せられたわけでしょう。しかし、これは間違っていたわけです。

そこで、野狐の身に落ちた人は百丈和尚に「不落因果か?」と改めて問うことになります。これへの百丈和尚の答えが、

「不昧因果」でした。


不昧因果とは因果を昧まさずということですが、ポイントは百丈和尚は因果に落ちると言わなかったことだと思います。つまり、自分を因果の外に立たせそれから因果に落ちるか、落ちないか、というような分別した考え自体を否定したのが不昧因果の言葉の真意なのでしょう。


百丈和尚にとって因果は「落ちる」とか「落ちない」とかそういうものではない。自分の外に因果をたてずに、自分は因果そのものであり、「落」も「不落」もないとあきらかに観て、昧まさないものなのでしょう。


私たちはどうしても「その因果には落ちたくない」、と思ってしまう事柄があります。そしてその因果に落ちないためにあれこれとはからいます。しかし、その因果の下にあるのであればその因果として現れる。そこで「避けたかった因果に落ちた!」と嘆くことになるのです。だから、大悟したら因果に縛られなくなったらいいな、と考えてしまい「不落因果」を求めることになってしまうのです。


私自身について今改めて考えますと、私の瞑想は「不落因果」を求める瞑想であったと思います。ある因果に落ちていて、そこから逃れるための、つまり不落因果のための瞑想でした。


しかし、いくら瞑想をしても因果からは逃れられない。不落因果は不可能でした。


そこで思いしったのが「不昧因果」というわけです。


「不昧因果」というのは、良寛が「災難を避けるにはどうしたらよいでしょう?」と訊かれて「災難に遭う時は遭えばいい。死ぬ時は死ねばいい。これが、最良の災難の避けかたである」といったのに通じるものがあると思います。


すなわち因果を昧まさずに、はからわないでいればよいということなのでしょう。


なかなか難しいことですね。