「『秋月蓮城のプログレッシブ精神世界』の閉鎖と、ブログ名の変更のお知らせ」

皆様ごぶさたしております。


私は体調が悪い日が続いています。季節の変わり目だからでしょうか??


さて、本題ですがブログ名を変更することにしました。それにともないブログのコンセプトも変えることにします。ブログのテーマは変わらないのですが、コンセプトとしては扱う領域の縮小をします。「秋月蓮城のプログレッシブ精神世界」としては閉鎖とし、全ての記事を削除とします。


もともとブログ名に「精神世界」という言葉を使ったのは、私が伝統宗教とともに1960~1980年代におけるいわゆるニューエイジ・ムーブメントに大きな影響を受けてきたからです。日本では「精神世界」といわれるジャンルですね。


ニューエイジは宗教性について科学的なアプローチを試み、また多元的に折衷した教えを説いたり脱伝統的な新しい試みでした。そうした目新しさは、ポストモダンなどの現代思想の流行とともに少年だった私には刺激的でした。


「精神世界」という概念は、宗教、科学、哲学、思想、心理学、薬学、社会学、人類学、オカルトなど様々な周辺領域を包摂する意味を扱うジャンルとしては都合が良かったのです。



これらは現代のスピリチュアル文化や環境問題運動などに継承されています。


しかし、当時「パラダイム・シフト」という言葉が盛んにつかわれていたのですが、パラダイムはちっともシフトせず、新しい霊性の文化の時代もちっとも来ず、時代はいたってモダンなままなのが現実です。


端的に言えばこういう目新しいものたちは商業主義に飲み込まれ、市場に流れる商品として消費されてしまい、社会システム内に回収されてしまった、ということです。こういう言い方も古臭いですね(笑)


そういう過程を見てきた者としては「精神世界」という言葉は過ぎ去った一つの流行として虚しい響きがあるのですが、他に良い言葉も思い浮かばないので、批判的に継承するつもりで「プログレッシブ」としてこの言葉を使うことにしたのです。


しかし、ブログで扱うにはテーマが大きすぎて自分の力不足を痛感しました。そこで、それらのことは自分なりにきちんとした内容とまとまった文章にすることにして、このブログでは扱わないことにします。


これからは自分なりに修行し、また理解し、それをまとまった文章に言語化していく作業の周辺のことをつらつらとブログにはつづりたいです。日記のような気軽なものですね。


こう思い立ったのの理由の一つとして、過去に書いた〈大周天〉や〈クンダリーニ〉などの瞑想体験の記事を不十分な内容の記述のままに多くの人たちに提供してしまったという反省があります。おそらく誤解などを多々まねいたと思います。それぞれの宗派や流派で秘伝にすることはそれなりの理由があるのだな、と感じました。単なる秘密主義だけではないのですね。


そのため過去に書いたそれらの記事は削除します。自分なりにきちんとした内容のことが提供できると判断したらブログでも改めて情報提供できるかもしれません。


新しいブログ名は「瞑想と宗教性について」という名称にします。テーマそのまんまでひねりがないですね…(笑)


宗教性という言葉は自分の中では違和感があります。鈴木大拙は「霊性」という言葉を使っていますがとても良い概念だと思います。しかし、現代で「霊」という言葉は多様な意味を持ち過ぎていて「霊性」という言葉も違和感があります。「スピリチュアル」と「スピリチュアリティ」という言葉も現代では全く違う意味にとらえられていますし。


こういった言語化し難さというのもこのテーマで気楽にブログを書けない理由の一つです。言葉って難しいですね。


「宗教性」という言葉が無難といえば無難ですがこれもちょっと違うというか。一つの実存性の問題なので。しかし、〈実存〉という言葉も一つの哲学用語であり一般的ではないし、哲学的ではあっても哲学それ自体を述べたいわけではないのでこれも違う感じがします。


言葉って本当に難しいですね。歴史上の宗教家や哲学者や思想家たちはつくづく天才だと思います。いたって凡才な私が真似をするのはとても無理なのですが、その人たちはそのオリジナリティ溢れる発想を正しい言葉の使い方で表現したので後世に幅広く影響を与え続けているわけです。そうした人々に学ばねばいけないとも思います。


言葉も一線を超えると読み取る人の理解に委ねなくてはいけないと思います。だから届かない未熟な言葉は理解されなくてもやむなしなのかもしれません。こだわりすぎるのも不毛なことでもあります。


だから結局は独りで黙々と修行をし続けるしかないのかもしれない、とも思い言葉にすることに葛藤を覚えます。それに、私の発想や言葉に天才たちのようなオリジナリティというのはありません。ただ、自分なりの経験と理解力によって天才たちの発想をどれだけ理解できるかというただそれだけだと思います。


それも結局は自分の人生をどう生きるかというそれだけのことなので、別に気負う必要もないのかもしれません。


そこは個人的なこだわりの問題にしかすぎず、どこまでこだわるかというのはむしろ表現者としての問題意識だと思います。


表現者としてどういう言葉を選ぶか。どういう形式で綴るか。そういうことに葛藤する今日この頃であります。