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「何も成し遂げるものはない」 求道日記 その2

昨年、私は瞑想などの修行を一時やめていました。その理由はいくつかあるのですが、その一つは自分の瞑想の意味に迷いを感じていたからです。


いくら瞑想しても確かなものを得られない。根本的なところで自分も自分の人生も変わりませんでした。むしろ確かなものはないのが確かなように感じるようになりました。


前々からうっすらと感じていました。大周天を達したり、クンダリーニやチャクラが目覚めたり、サマディ(三昧)に入れるようになったり、と瞑想で様々な体験をし成果をあげてきましたが、だからといってそれがなんなのだろう?と。成果などというのも自惚れではないか?と。


瞑想をする目的は人それぞれでしょう。目的を達したらそこで終わり。瞑想のゴールですね。終わりというよりはあがりというか。それは人や宗派によってそれぞれなのでしょう。


私が感じたのは、そもそも瞑想に終わりなどあるのだろうか?ということです。何もかも不確かならば確かな終わりなどあるはずがありません。無限に遠ざかっていくゴールを追っても永遠に届きません。


終わりを目指してがつがつと貪るような瞑想というものに疑問がありました。


禅では修証一等という考え方があります。方法と目的を分別しなくていいわけです。方法そのままでそれが目的なわけです。もしくは方法も目的もないというか。一如、不二ですね。


この理解の仕方ならばゴールを目指した瞑想をする必要はないわけです。むしろゴールを求めるのは間違いである。ゴールを求めないのがゴールというか、ゴールを求めないのがあがりなわけです。


そうするとゴールというものはないことになります。ゴールを目指して瞑想することに執着する必要はないわけです。執着なく無目的なのが目的というか。禅の難しさを感じます。


そこでは瞑想で成し遂げなくてはいけないものはありません。「無」です。無限に遠ざかるゴールを追わなければ、ここがゴールであり、至るところがゴールなわけです。


禅のように考えると、そもそも瞑想で成し遂げなくてはいけないものなど何もないのかもしれません。